僕の中のあいつ 第二部 第八章
 眠りから醒めた僕を襲ったのは状況が判らないと言う恐怖。まず自分がどうしてここに居るのかが判らない、どうやら病院らしいと言うことは判るのだが……。

 それに、僕が気が付いた時には既に僕の身の回りの世話をしていた少年達。僕には彼等に関する覚えが一切欠落していた。彼等が言うには僕は掛け替えの無い大切な人らしい。特にその中の一人にとってはそれこそ自分の命に換えても惜しくないと迄言っていた。

 ただ、その少年は僕が目覚めてからは一切の表情が消えていた。

「あの……優君……だっけ?」

「何?お兄ちゃん」

「君達は何でそんなに僕の事を気にかけてくれるんだい?」

「……!」

「あ……」

 少年は僕の問い掛けに鋭い視線を返し、黙って病室を出ていってしまった。その視線を僕は一生忘れることは出来ないだろう。それ程までに深い悲しみに満ちた視線だった。

「……何か聞いちゃいけなかったみたいだな……」

しかし後悔してももう遅い、彼は足早に部屋を出ていってしまっていたのだから。

「……坊もすっかり笑わなくなったな……」

 優君が出ていくのとほぼ入れ違いにサングラスをかけた巨漢と髪の長い格好さえ違えば女の子でも通用しそうな少年が入ってきた。

「お加減は如何ですか?明さん」

 その少年もまた、僕の事を真摯に面倒を見てくれる内の一人だ。

「美幸君……じゃなくて美里君。来てくれていきなり悪いんだけど、優君の事見てきてくれないかな?僕が彼の事で無神経な事言ってしまったらしくて……」

 彼は僕が何を言ったのか、聞こうともせず、ただ判りましたとだけ言って部屋を出ていった。

「おぅ明、まだ駄目か……」

この大柄な知らない人が見たらまずヤクザにしか見えない人も、僕に関わりあいがある人らしい。

 と言うよりも先程一緒に来た少年と双子の 弟の保護者であり上司であるらしい。

 初めて彼がここに来た時には僕の記憶が無くなったのはこの人に何かされたからじゃないかと思った位だ。

 だが、話してみると言葉遣いこそぞんざいだが、見た目以上に優しい人だった。

「すみません」

 一向に記憶が戻らない事に対して皆に申し訳無いと言う気持ちから自然と謝罪の言葉が漏れる。

「あ、いや俺ぁ別にお前の事を責めてるわけじゃねぇよ。ただな……坊がかわいそうでよ」

 坊と言うのは優君の事。確かに僕が見る限り僕の前で笑っていない。……いや一度だけ笑ってみせた事があった、あまりに痛々しくてとても正視出来るものではなかったが……。

「あの……」

「ん?」

 僕は目覚めて以来ずっと気になっていた事を聞いてみた。

「あのですね、ずっと気になっているんです。どうして彼等はあんなに僕の事面倒見てくれるんでしょうか?」

僕の問いに彼は極単純に答える。

「そりゃ、お前の事が大事だからに決まってらぁ」

「それは彼等から聞きました。僕に、こんな待遇を受ける資格があるんでしょうか?」

僕は個室の癖に妙に広い、そして豪華な病室をみまわした。

「資格か……、充分あるな」

「何故?」

「お前は坊の、ひいては泉寺グループ全体の恩人だからな。しかも自分の命を返り見ずって事してっからよ。親爺はそう言う人間には最大限の敬意はらうからな、だからお前は何も気にする事はない。ゆっくり養生するこった」

「……そうですか」

本当にそれだけだろうか……。僕は優君のあの何とも言い様の無い寂しげな表情が気になって仕方がなかった。

暫くの沈黙。重苦しい雰囲気があたりを取り巻く。その空気を突き破るように一人の少年が入ってきた。

「暗いっ!暗いなぁっ!明兄ぃもおっちゃんも暗すぎっ!なーんでそんなに暗いかなぁ?もっと明るくいこうよ!」

声の主は美幸君。美里君の弟だ。容姿こそ瓜二つだがその内面は正反対だ。彼はお気楽を地でいっている。

最初は僕を気遣ってわざと明るくしているのかと思ったがそうではなかったらしい。ただ、その明るさが僕の心理的負担を和らげているのは確かな事だ。

「てめぇは喧しいんだ!ちったぁ静かに出来ねぇのか!」

 目茶苦茶ドスの効いた声で美幸君をたしなめる清水さん。その余りの凄みに自分が言われた訳でも無いのに思わず萎縮してしまう。

それを見た美幸君がまるで今怒られた事を、毛程も感じない口調で反対に清水さんをたしなめる。

「おっちゃん、おっちゃんの方がたち悪いって……見てみ、明兄ぃビビリ入ってるって」

 その言葉を聞いて清水さんは慌てて僕に謝りその後美幸君の頭をゴツンと叩く。

「ったく……おめぇは余計な一言が多すぎんだ……馬鹿タレが。第一今日は親爺と一緒の筈だろう、どうしてこんな所に来てんだ。仕事はさぼるな!」

 あぁ、それでいつも見舞いに来てくれる時の様なあのラフな格好じゃないんだ、僕は納得する。ちなみに今日はきっちりとした漆黒のスーツを身に着けている。

「痛いなあ、ぶつ事無いじゃん。それにオイラさぼってなんかいないや」

「そうか、それなら尚更けじめをつけんか!美鏡美幸!少しは兄貴を見習えっ!」

 再び彼の怒号が響く。美幸君は姿勢を正すと清水さんに報告を始める。

「只今泉寺会長が本院に到着、院長室に優様とお二人でいらっしゃいます。ならびに会長が清水警備部長の事をお呼びになっています。用事が済むまで自分と美鏡班長は日野明氏の身辺で待機する様にとの指示を受けました。以上、報告終了します」

「御苦労、美鏡副班長。で?相模はどうした」

「主任は秘書室長と電話で話してます。なんせ突然の訪問だったんで予定が狂ったって、秘書室長怒っているみたいで……」

「源ちゃんなら怒るだろうな……判った、俺ぁ行ってくっからおめぇはここにいろや」

 そう言うと清水さんは椅子から立ち上がり部屋を出ていってしまった。残された美幸君は今まで清水さんが座っていたパイプ椅子を調べている。

「どうしたの?美幸君」

 僕が疑問に思い問い掛けると彼はニヤッと笑って言った。

「いやね、おっちゃんが座ってたこの椅子、よくもったなって思ってさ。このタイプの椅子結構壊してるんだよね、おっちゃん。あのガタイの癖して更に他に特殊装備着けてるか

ら見た目以上に重いんだ」

 そして美幸はそのパイプ椅子に異常が無い事を確かめた後にそれに座る。

「あのさ、明兄ぃ確かに記憶が無くなってオイラ達の事忘れちゃってて呼び辛いのわかるけどさ、皆の事君付けで呼ぶのやめて欲しいんだよね。何かさ凄くよそよそしくってさ。皆が暗くなるのってそれもあると思うんだよね。だから、初めは言いづらいかも知れないけどさ、皆の事呼び捨てで呼んでくれないかなぁ」

 少し言いづらかったのか、美幸君は僕の目を見ようとしないで話した。でも、確かにその通りかも知れない。

「判ったよ。そうだね、その通りだ。じゃ、これからは君付けで呼ばない様にするよ」

「さすが明兄ぃ!話が早くて助かるなっ!」

 美幸君がそう言って膝を叩いたその瞬間、椅子の寿命が尽きたらしくパキッという音がした後、美幸共々床に崩れ落ちる。

「痛ってぇ〜!なんでおっちゃんの時に平気でオイラん時に壊れんだよぉ」

 この馬鹿椅子、恩知らず。等と椅子に向かって悪態をついている。そこに優君と美里君が帰ってきた。

「あ、美幸が椅子壊してる」

 美幸君が椅子に蹴りを入れているのを見て優君が言い放つ。

「もう!美幸また何か壊したの?」

 またって事は美幸君はよく物を壊すらしい。

「違っ!濡れ衣だっ!明兄ぃ何か言ってやって!ねぇオイラじゃないって言って!」

 美幸君は僕にすがりつき懇願する。その姿が、余りにも真剣だった為僕は助け舟を出す。

「たしかに美幸君が座っていた時に壊れたのは事実だけどね、その前に清水さんが座っていたんだよ。だから彼ばかりを責めるのは可哀相だよ」

 それを聞いて二人は納得した様子を見せたが美里君はそれに留まらなかった。

「でも、壊れたのは事実だ。美幸、明日迄に始末書一枚ね。ただし部長の名前書いていいから」

「やっぱり書かないと駄目?」

「駄目に決まってるよ、ISSならまだ誤魔化しが効くけどここはまるっきり別なんだから。ちょっと部長の所に言ってくる。すぐに戻ってくるから」

 そう言って美里君は出ていってしまった。そこに残された二人は新たに椅子を持ってきて座る。

「あーあ、おっちゃんのお蔭で始末書書かないきゃなんないのか、面倒だなぁ……」

「さっきさ、美里が言ってたじゃない?あれ本当なの?」

「何が?」

「また壊したの?って奴」

 それは僕も気になった。

「ノーコメント」

 美幸はぶすっとしたまま、答える。

「ふーん、やっぱり壊してるんだ。じゃ、これから美幸の事クラッシャーって呼ぼう」

 あ、初めて優君が笑ったの見た。へぇ結構いい笑顔するじゃないか。反対に当の美幸君はさらにむくれている。

「まぁまぁ、余り苛めるのやめなよ。可哀相だろ」

 そういう僕も顔はにやついてる。

「明兄ぃまで笑ってやがんの、ひでぇや」

 美幸君はクスン……オイラって不幸なのね等と言いながらまだ夕日と呼ぶには早い太陽を見ている。

暫くの間、初めて心からの笑い声がこの部屋に響いた。ここ数週間、つまり僕が気が付いてからはここで笑顔を見せたのは看護婦さんだけだったのだから……。

「愉しそうじゃの」

そう言って一人の老人が入ってきた。その姿を見て、美幸君はびしっと直立不動の体勢をとる。

「お爺様……」

優君が言った通りこの老人は優君の祖父にして僕が働いていると言うIZUMICの会長だそうである。

「どうじゃな、明君体調の方は」

「はい、両手のギプスが重い以外は別に問題ありません」

「そうかそうか、ならば良い。ま、骨折が完治する迄はゆっくりするがいい。治り次第仕事に復帰して貰うでな、はよう治せよ。皆心配しておるからの」

「お爺様!そんな無茶な!」

優君が叫び椅子から立ち上がる。

「お主が口をはさむ問題ではない!」

さすが大企業の総帥、その一喝はさっきの清水さんの怒声以上の威厳がある。

「お主の言いたい事はよく解る。じゃがな、昔の記憶が無いのは口実にしかならんし、逆に働く事が刺激になるかも知れん。院長もそれに賛成しとったわ。じゃから仕事にはよう復帰せいと言っておる。どうじゃな、明君?なに、いきなり前のように仕事せいとは言わんよ。元々が駆け出しのひよっこ秘書じゃったしな。一からやり直しても問題無いじゃろ」

いきなり僕に振られても……とは言え、元々は僕の問題か……。そうだよな、ここでだらだらしててもあまり意味が無いと思うし。

「はい、仕事はやっていく内に覚える様にします。それで良ければ、お願いします」

「お主ならそう言ってくれると思っとったよ。ま、そいつが治る迄はゆっくりしているがえぇ」

僕はハイと返事をする。

「どれ、そろそろ行くとするかの、美鏡君。邪魔したな」

部屋を出ていこうとする翁に頭を下げる。そこにいつの間にか戻ってきていた清水さんが声をかける。

「親爺、源ちゃんが大分怒ってるらしいから早く戻った方がいいみたいだぜ」

「さすがの田代でも怒るか。どれ、とっとと帰るかの。清水よ、お主らはどうするんじゃい」

「ん、俺も戻るがね。坊はどうせ残るだろうから美里を残していくわ」

「そうか、ならばそうして貰おうかの。美里君、後を頼むぞ」

そう言って、部屋の中から3人が消えていった。

「なんで清水はボクが残るって決めつけてるんだろ」

「優様、自分で解って無いですか。優様はいつも明さんの夕飯を食べさせてあげてから帰るでしょう?まだご飯の時間には少し早いですから。だから部長は残るだろうって考えたんですよ」

そっか、そう言えばそうだな。朝と昼は看護婦さんが食べさせてくれるけど、夕飯だけは絶対に優君だな。

「そっか……」

優君の方も納得がいったようだ。

「さてと、優様。ご飯まで少し間がありますよね。皆で少し外の空気吸いに行きましょうよ」

僕らは美里君のいわれるままに病院の中庭に出ていった。確かに僕が入院しているのは、この両手が原因なだけだから別段歩く事に異論は無い。どちらかと言えばここでの散歩は実に良い気分転換になる。

「今日は暑いな、少し歩いただけなのにもう汗が出てるよ」

ただ、その汗も不快な汗じゃない。

「本当、今日は確かに暑いですね、どうします?戻りますか?」

美里君が気を使ってくれる。

「いや、いいよ。たまには身体動かさないと鈍るばかりだ」

「そうですか、じゃ、一旦あそこのベンチで休みましょう一気に身体動かしても体に悪いですから」

僕達は中庭にあるベンチに座る。

「お兄ちゃん何か飲む?ボク買ってくるよ、それとタオル持ってくる」

優君が僕の汗を見て気を使ってくれた。

「優様、私が行ってきますよ。何にします?」

「いいよ、ボクが行くってば」

「何言ってるんです。優様を使いぱしりにする何てのが私に出来る訳無いでしょ、私が行きますから」

「そぉ?じゃお願い、ボクオレンジジュースがいい。お兄ちゃんは何飲む?」

「そうだな、何かスポーツドリンク系の物がいいな」

「わかりました。じゃ、ちょっと行ってきます」

美里君は小走りにその場を去っていってしまった。優君は僕の隣に座っている。

「ねぇ、お兄ちゃん。ちょっと寄り掛かってもいい?」

 疲れたのかな?僕はそう思いながら、いいよと言う。

「どうしたの?優く……」

僕はさっき美幸君と約束した事を不意に思い出し、今迄全然約束を守っていない事に気付き思わず口に出た、くの字を飲み込む。

「無理しないでいいよ、どうせ誰かに君付けするなって言われたんでしょ。そんなおせっかいしなくてもいいのにね。だからお兄ちゃんもいつも通りでいいよ」

あ、何か凄く格好悪いな、僕は……。

「……ごめん」

「だから、いいって」

暫くの間二人を沈黙が覆う。

(うっわー……凄く気まずい……。)

 何とかその場の雰囲気をかわしたいのだが一度失った機会は中々取り戻せない。

(早く美里君帰ってきてくれないかな……。)

 だがそういう時に限ってなかなか帰ってきてくれない。

「師匠!先輩!こんな所で何ぼけっとしてるんです?探しちゃったじゃないですか」

 僕達は声の方に振り向く。良かった、何にせよこの状態から脱出出来る。声をかけてきた少年は身に着けている胴着から湯気をたてていた。

「なんだ健太か……。どうしたの?」

「いや、今日の部活で来週の試合のメンバーが決まったんで報告にきたんです。俺、大将に選ばれたんですよ!」

 余り事情は判らないがとにかく嬉しい事には違いない。実際に健太君の顔は誠に嬉しそうだ。

「へぇ、やったじゃないか、おめでとう」

「まぁ、健太ならその資格はあるよね。じゃ、今日から主将だ。おめでと」

「これもみんな師匠と先輩が稽古つけてくれたお蔭だよ、俺頑張ります!」

「来週の試合頑張って勝てよ」

 優君が健太君に向かって激を飛ばす。

「負けませんよ、先輩」

大きく頷く健太君。そこに美里君がジュースを持って帰ってきた。

「お待たせしました。はい、どうぞ。って健太も来たんだ」

 かろうじて指先がギプスから出ている僕の為に缶ジュースにはストローが刺さっていた。

「あ、ありがと」

「今来たんだよ。師匠、それちょっとくんない?喉乾いちゃってさ」

「いいよ」

 僕は健太君に一口だけ口を付けた缶ジュースを渡す。

「さんきゅ、師匠」

 健太君はそう言うとごきゅごきゅと中身を流し込む。僕の元に返って来たのは半分以上無くなってから。

「おいおい、殆ど無いじゃないか」

「へへ……ゴメン、俺買って来るよ」

「当たり前だよ、明さんに買って来たのに……。ほら、お金!」

 美里君が健太君に向かってお金を投げる。それを器用にキャッチした健太君は走って売店の方へ消えて行く。

「全く健太ってば何も考えてないんだから……」

 優君が溜息をつく。

「しょうがないよ、練習で喉乾いてたんだろ?」

 僕はあははと笑った。程なく健太君がジュースを二本持って帰って来る。

「ほい、師匠」

「あ、ありがと。でもなんで二本?」

「俺まだ飲み足りないもん」

 確かに……。

 僕は健太君が買って来たジュースを飲みながらのんびりとした。横では美里君が一気にジュースを飲み干した健太君相手に護身の訓練をしている。

「戻るかな……」

二人の組手が一段落した後、僕は立ち上がりジュースをゴミ箱に捨てる。

「あ、お兄ちゃん待ってボクも行く」

 優君が僕の後をついて来た。

「しかしあの二人熱心だよな」

「でも病院の庭迄来てやらなくてもいいよね」

「あはは、確かにそうだ」

 そんな事を話している内に部屋につき、僕はベッドに腰掛ける。

「お兄ちゃん汗だらけ……待ってて今熱いお絞り持ってきてあげる。そのままじゃ風邪ひいちゃうよ」

 確かに今日は暑かったから運動量は大した事なくても充分汗をかいていた。

「ごめんな、なんかこきつかっちゃって」

「いいって、ボクは好きでやってるんだから」

 もう何回繰り返したか判らないやりとりの後、優君はたたっと病室を出ていく。

(いい子だよな……)

 僕は窓の外をみながらそう思う。そう言えばあの二人はまだ帰ってこないけど、どうしたんだろう?窓から中庭を見回すが二人のいる様子がない。

「いい加減にしなよ!だいたい美里はお兄ちゃんの所にいるのが仕事じゃないの?健太と組手ばかりしてちゃ駄目じゃないか!」

 部屋の外から優君の二人を叱る声が聞こえる。声のトーンを落としているが、それでもこの部屋まで聞こえてくる。

……何か恥ずかしいな……

 僕は廊下に出て辺りを見る。……いたいた、少し離れた位置で優君に怒られしゅんとしている二人。

 僕はこっちに気がついた美里君に手招きをする。美里君は背を向けてこちらに気が付かない優君に合図を送ってくれる。優君はこっちを見た後に二人に何かを言ってこちらにくる。二人もこちらに向かって歩いてくるが少しばかり足取りが重そうだ。

「怒りすぎじゃないの?」

「でもあんな所で怒らなくても……」

 優君に身体を拭いてもらいながら言うと、優君はかなりきつい口調で僕に食って掛かって来た。

「ここで怒ったら今のお兄ちゃんじゃ止めちゃうの判ってるもん!」

 てきぱきと汗で少し湿った僕の浴衣を替える。丁度その時に夕飯が良い匂いをさせて運び込まれた。

「今晩の御飯は何かな?」

「サイコロステーキとほうれん草と卵のソテーですよ」

「あ、旨そう。師匠、一個貰っていい?」

「一個だけだよ」

「やった!」

 そう言って、健太君はステーキを口に運ぶ。

「うまーい。病院の御飯ってもっとまずいと思ってたんだ〜!」

「明さんは内臓疾患じゃないから。だから食事はどっちかって言うと普通の御飯なんだよ。それにここはVIPルームだから食事は別に作るんだ」

 美里君が健太君に説明している。僕も、既にベッドに座って優君に夕飯を食べさせてもらっている。確かにここの御飯は美味しい。

「ふぅ、ご馳走様、いつもありがとね」

「いいよ、好きでやってるんだから。じゃぁ、ボク帰るね。美里と健太はどうするの?」

「優様が帰るんなら帰りますよ。私の仕事をなんだと思ってるんですか?」

「俺も帰るよ。帰って打ち込みの練習しないきゃ」

「そっか、じゃぁ、みんな気をつけて帰るんだよ」

「うん。また明日来るね。お休み、お兄ちゃん」

 皆が帰ると途端にこの部屋は静かになる。独りでいると何か凄く人恋しくなる時がある。夜の帳がおりて窓の外には明るく月が浮かんでいる。

 晩の回診も終わりもうすぐ消灯時間になろうと言う頃に二人の来客があった。それはこの病院に勤めている看護婦さん。

「ちょっといいかな?」

「?いいですよ?なにか?」

「ちょっとね、この子が君に用事があるんだってさ」

 僕に声を掛けて来たのは僕の担当の子で福部って言う子だ。その後ろに控えてる子は僕はあまり知らない。ただ僕の顔を見てもじもじとしている。

「ほら、早く言いなさいよ。私これから夜勤なんだからさ」

 そう言ってグイグイとその子の事を僕の前迄押し出す。

「じゃ、あたしは行くからね。明君バイバイ」

 福部さんが去った後、暫く二人は無言のままだった。消灯時間が来た為自動的に照明が暗くなる。それをきっかけに独り残された子がこちらに寄って来た。

「あの……迷惑かも知れませんけど……。これ読んで欲しいんです」

 そう言って渡されたのは一通の手紙。そしてそのままその子は部屋を出ていった。

 一体なんだったろう……。僕は少し苦労してベッドの読書灯をつけ、更に苦労して渡された手紙の封を開け、眼を通す。そして僕は困惑してしまった。

 ……ふう……どうしたらいいのかな……。

 そこに書かれていたのは僕の事をずっと前から見ていたって事、僕の事が好きだって事、もし良ければつきあって欲しいって事。

 僕が良く判らなかったのは優君達の事も知っているけれどそれでも好きだって書いてあった事。僕と優君達の間には何があったんだろう……。

 結局訳の判らぬまま僕は読書灯を消し、布団をかぶる。

 つきあってってのは別にいいとしても、優君達との事か……。それに僕は彼女の事全然知らないしなぁ……。返事はいつでもいいって書いてはいるけど、やっぱり早くしてあげないと可哀想だし……。

「お兄ちゃん、お兄ちゃんてば!」

「ん?なんだい?優君」

 しまった、昨日の事が頭から離れなくて優君が何を言ってたのか聞き逃した。

「今日のお兄ちゃん、何か変。ボクが何言っても何にも聞いてないよ。何かあったの?」

「ゴメンゴメン、別に何も無いよ。ただちょっと考え事してただけだから」

 結構鋭いな……この子。別にやましい事ではないと思うが昨日の手紙が気になって、つい言い繕ってしまった。

「そぉ?ならいいけど……」

 普段から僕の事を全面的に信頼し疑う事をしない彼が初めて僕に対して見せた疑惑の顔だった。

 その顔を見ると自分が何かとてつもなく悪い事をしている様な気がしてしまう。

 別にやましい事してないと思いたいが、どうしてもこの一途な少年を裏切っている様な罪悪感が拭い切れない。

「そうだ、今日母さんが見舞いに来てくれた時にゼリーを持ってきたんだ。君にも食べさせろって言ってたんだよ。一緒に食べよう」

「いいの?ありがとう!」

 本当に嬉しそうな声を出す。

「あははは、君は結構食いしん坊なんだな。冷蔵庫で冷やしてあるから取っておいで」

「うん!」

「おいひいね!」

 優君はゼリーを口一杯に頬張り、その食感を楽しんでいる。

「そうだね」

 時折優君が差し出してくれるゼリーを口にしながら、何というか一番あってはいけないと思う考えに辿り着いてしまった。

 ただ、今迄の優君の仕種や表情、行動を思い起こすとその結論が一番しっくりする。

 そして昨日の手紙にあった僕達の関係という部分。今、目の前にいる少年に確かめるのが一番確実だろう。だが今の僕にはその勇気が出せない。

「ねぇねぇ、お兄ちゃん。もう一個食べていい?」

「ダメだよ。皆の分が無くなっちゃうだろ?僕の分の残り食べていいからさ」

「んー、お兄ちゃんの貰うんだったら別にいらないや」

 そう言って僕の口元にゼリーを持ってくる。

「あらぁ、相変わらず仲がいいわねぇ。優君お姉さんにも一口くれない?」

 少し困った様な顔をした優君を見届けた福部さんは、いつも通りけらけらと笑う。

「冗談よ、あたしだって今は仕事中なんだから」

 そう言って僕に体温計を渡し、首筋で脈を取る。

「別に変わった事は無いよね」

 僕は肯定の返事をする。

「ならいいね。優君あんまり明君の事困らせちゃ駄目よ」

「ボクは困らせてないやっ!」

「はいはい、優君はいい子だね。じゃぁ、あたしお仕事行くね、そうそう、明君、後であの後どうなったか教えてねぇ」

 そう言って僕の中に激しい動揺を押し付けて彼女は出ていった。

「ねぇねぇ、あの後って何の事?」

 優君は興味津々に聞いてきた。

「別に何でも無いよ。ただのお話だよ」

「へぇ、どんな話なの?聞きたいな」

 しまった、躱したつもりが余計に興味を持ってしまった。

「今度ね」

「え〜、聞きたいなぁ」

 ブーブー言っている優君を何とか宥める。そこに美里君がやって来た。

「優様、明さんをそんなに困らせちゃ駄目ですよ」

「困らせてないよ〜」

「困ってますよ」

 優君は美里君にたしなめられてむーと膨れている。

「どうです?今日もいい天気ですよ。またお散歩でも行きませんか?」

「いいね、行こうか。屋上なんか気持ち良さそうだね」

 正直言って助かった。なんか彼にはこの話をしたくなかったのだ。

 僕は早速ベッドから起き上がり病室の外へ向かった。

「優君遅いね」

 見晴しの良い屋上でなかなか来ない優君を待ちながらゆるゆるとした時を過ごす。

「来ませんねぇ。どうしたんでしょうか……」

「戻るかい?」

「そうしましょうか」

 僕達二人は全く来る気配の無い彼を気づかい部屋に戻る事にした。

どうしたんだろう?彼は椅子に座ったままじっとしていた。

「あ、いたいた。どうしたんだい?待ってたのに来ないから心配したんだよ」

 僕は優君のそばに歩み寄った。

「お兄ちゃん……こういう時ボクは何て言えばいいの?」

「え?」

 見ると彼の手には昨日渡された手紙が握られていた。

「さっき福部のお姉ちゃんが言ってた話ってこれの事でしょ」

 ここでごまかしてしまう事は可能だと思う。でもここまで深刻な顔をされると迂闊な事も言えない。

「ねえ、答えてよ。この人とつきあうの?ねえ、もうボクの事愛してくれないの?」

 優君は半泣きになりながら僕に詰め寄ってくる。僕は後ずさりしてベッドに腰かける。

「優君、落ち着いて……」

「ボクは冷静だよっ!ねえ!もうボクにキスしてくれないの?一緒に寝てくれないの?ねえ……教えてよ……お兄ちゃん」

 優君は完全に泣きながら、僕の胸倉を掴み揺すり続ける。

 やっぱり僕達はそういう関係だったんだろうか?

「優君一つ聞いていいかい?僕と君はやっぱ

りそういう仲だったのかい?」

「そうだよっ!お兄ちゃんはボクの事大好きだって言ってくれたよ……」

 そう言って僕の唇を奪う。

 その唇はとても柔らかかった……が、僕は思わず優君の事を突き放してしまう。そして、僕の行動に呆然としている優君の目を見るのが辛くて視線をそらす。

「……ごめん、僕は君の事をとても可愛い弟の様に思ってた。他の皆もそうだよ。確かに昔の僕は君の事を愛していたのかも知れない。でも、ごめんよ……今の僕にはそれ以上の感情は持てない……」

 それだけ言うのに凄く時間がかかった様な気がする。

 暫くして優君がゆっくりと僕から離れ、口を開く。

「……ごめんなさい、ボクもう帰ります。さよなら……お兄ちゃん」

 優君はそのまま部屋を出て行ってしまった。



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