僕の中のあいつ 第二部 第九章
 優君がここに来なくなってから今日でもう一週間。確かに最初は暫くは来ないだろうとは思っていた。でも一日と開けずに来ていた子が来ないというのはやはり寂しい。

 まぁ自分のせいだと言うのは重々判ってはいるが……。手紙をくれたあの子にもまだ返事をしていないし、彼のあの時の表情が目に焼き付いて離れないのだ。

「明兄ぃ、そんなに落ち込まなくたっていいじゃん。優ちゃんの事だから、すぐにけろっとしてまた遊びに来るって」

「そうかな、そうだといいな」

「大丈夫、大丈夫!」

 こういう時に美幸君の明るさはとても助かる。

「こんちわぁ」

 そこに入ってきたのは健太君。健太君は入ってすぐにキョロキョロと部屋の中を見回す。

「どしたん? 健太」

 美幸君が健太君の挙動に疑問符を投げかける。

「兄貴、先輩来てない? 話したい事あったんだけど学校で会えなくてさ。ここなら絶対にいると思ったんだけど……」

「来てないよ。家には行ってみた?」

「まだ行ってないけど……」

「ちょっと行ってきてみ? そろそろ帰って来てるかもしんないよ?」

「そっかぁ……じゃぁ行ってみるよ。本当は皆のいる場所で言いたかったんだけどな。そうそう! 師匠、こないだの試合優勝したぜ!」

「へぇ!やったじゃないか、おめでとう!」

 僕は素直に喜んだ。僕の表情を見た健太君は満足そうに頷いた。

「これも師匠と先輩が教えてくれたからだよ」

 まぁ、僕は何をしたのか記憶に無いがきっと何か特訓にでも付き合ったんだろう。

「きっとそれが君の実力なんだよ。僕は何もしていない」

「それは違うよ。俺、師匠に会ってなかったら多分ここまで来れなかったもん」

 健太君は真面目な顔で言っている。このまま言い合いしていても不毛だなと思い、僕は感謝の言葉を受け取る。

「そうか、ありがとう」

「ううんいいんだ。それよりさ、師匠が治ったら俺、ご褒美が欲しいな」

 僕の顔を覗き込み悪戯気におねだりする健太君。やっぱりこういう所は子供だなと思う。

「いいよ、何が欲しいんだい?」

「内緒!その時になったら言うよ」

 両手を後頭部で組んでニコニコしながら話す健太君。その顔が少し赤いのはプレゼントが貰える事で少し興奮しているからだろう。

「健太、何が欲しいんだよ? オイラには教えてくれるよな?」

 健太君の肩を抱きながら問う美幸君。

「えぇっと、兄貴にも内緒」

「いいじゃん教えろよー、オイラと健太の仲じゃん。」

 ぐいぐいと首に手を回して更に向こうに引っ張っていく美幸君。とうとう観念したのか美幸君の耳元でごしょごしょとなにかを囁いている。

 それが終わった後、美幸君はにまぁっと笑いながら僕の方を見て口元を手で押さえ、うぷぷっと笑っている。何だよ気持ち悪いなぁ……。

「何だよ、僕にも教えてくれよ。」

 僕は何か悪巧みを目の前でされているような気がして気になってしょうがない。

「いやぁ、男と男の約束だからさぁ、いくら明兄ぃでも教えられねっすよ」

 うわぁ……なんだか凄く気になるぞ。

「大丈夫だって、いつまでも秘密にしてるんじゃないんだしさ、そのうち判るって」

 まだ、目が笑っている。完全に人の事からかって遊んでいるな……。

「いいよ、判ったよ。二人して意地悪してりゃいいんだ」

「すねたって駄目、これは教えないよん。」

「判った、判った、僕の負けだよ」

「それじゃ師匠、俺先輩んちに行って来るからさ、もし先輩が来たら優勝したって言っといてよ」

 健太君は大きなカバンをかつぎあげる。

「オーケー、わかったよ。もし来たら言っておくよ。」

 優君は多分今日も来ないだろうなと思いつつ返事をする。

「明兄ぃ、オイラ今日は帰るよ。んで、明日は多分兄ちゃんが来ると思う。オイラしばらく研修で来れなくなっちゃうんだ」

「そうか、研修か……じゃぁ寂しくなるなぁ。でも頑張って来なよ」

「明兄ぃも言うねぇ、実はうるさいのがいなくなってほっとしちゃってるんじゃないの?」

「ははは、実はその通りだ、とっと帰ってしまえ」

「ひっでー! 明兄ぃがそんな冷たい人だとは思わなかった! あの日の事はうそだったの?」

 そう言って、よよよ……と崩れ落ちる美幸君。あの日の事がまだ頭にあるので、はっきり言って洒落になっていない。ただ、救いなのはこの子がおふざけが大好きでこう言った事をしょっちゅうやっている。だから冗談だというのは判っているのだが、それでも動揺してしまう。

「いいから帰れ! お前は!」

「うひぃ、明兄ぃが怒ったー」

 美幸君はへらへら笑いながら病室を後にした。

「まったくもう……」

 呟きながら、結局今日も優君は来なかったなと思う。あの子の笑顔が見れないのがなんとなく寂しい。

 でも、美里君が来るんだったら一緒に来るかな? 確か美里君達は優君の側を離れないように言い付けられてる筈だよな。

 次の日、美里君が病室に来た時、優君の姿は無かった。だからそれとなく優君の様子を聞いてみた。

「実は私も良く知らないんですよ。ただはっきりしてるのはあの後学校に行ってないんですよね……。美幸から聞きませんでした?」

 知らないぞ、美幸君そんな事一言も言ってなかったもんなぁ。

「そうなのかい? だって君たちは確か優君のボディーガードじゃ無かったっけ?」

 たまに会長から預かると言う花を花瓶に活けながら美里君はえぇと答える。

「基本的にはそうですよ。ただ優様がお屋敷から出ない分には私達はその任を解かれますから。あそこは私達よりもっと強い人たちがついてますからね。で、私達に一切連絡が来ないって事は、優様が外に出ようとしないって事です」

 なる程、そんな事情があったのか……。

「でもさ、あんなに仲がいいんだからさ、個人的に家に行けるんじゃないの?」

「行きましたよ。でも本人に会いたくないって言われてしまったら私達じゃどうにもなりません。でも大丈夫ですよ、今はチーじゃないや部長がお屋敷にいますから」

「部長……? 美里君達の上司かい?」

「やだなぁ、明さん。明さんも良く知ってますよ。清水さんですよ」

 あぁ、あの熊みたいな人か。

「あの恐い人か。熊みたいにでかい人」

「そうそう、でも本人の前では言わないで下さいよ。結構気にしてるんですから。部長だったら優様がいくら会いたくないって言っても無理矢理入って行きますからね」

 確かにあの人ならやりそうだなぁ。

「で、その清水さんからは何も聞いてないの?」

「え、えぇ。私達には教えてくれないんです」

 そうかぁ……やっぱり僕が原因なんだろうなぁ……。

「まぁ、優様の事は私達に任せて明さんはゆっくりと怪我を治して下さいね」

「あ、いたいた」

 そこにやって来たのは美里君位の背格好の女の子。

「あれ? どうしたの?」

「みーちゃんケータイ切ってるでしょ。電話が通じないってクマさんが言っててさ、あんた連れてこいってうるさいからさ」

 走って来たのか、少し息を切らしながら話す。

「えーっと美里君、彼女?」

 僕の言葉にちょっとムッとする美里君。なんでだろ? 彼女位可愛けりゃ怒る事無いのに……。その代わりに彼女が嬉しそうにする。

「えぇ? そう見えます?」

「別にいいだろ、そんな事。で? 部長はなんて言ってるの? 報告してよ」

「別にそんなに嫌がんなくたっていいじゃない。ねぇ?」

 彼女は僕の方を見て同意を求める。

「可愛い子じゃないか? そんなにつんけんするなよ美里君。いつもの君らしくないよ」

「明さん。これ、つけあがりますから黙ってて貰えませんか?」

 うあ、美里君本気で怒り始めてるよ。少し黙ってよう。

「ひっどーい。いいもん、クマさんに言い付けてやるから」

「いいから報告!」

「別に報告する事ないのよ。とにかく連れて来いって言われただけだもん」

「部長が理由言わない事なんてある訳ないだろ!」

 あ、どんどん機嫌悪くなってるし……。

「ほんとよぉ……。クマさん本当に何も言ってくれなかったのよぉ。信じてよ、みーちゃん」

「判った! もう言わなくていい! 電話して聞いて来る! 君はここで待機してろ! いいか? 余計な事喋るんじゃないぞ。明さんすいません、ちょっと電話をかけてきます」

 そう言うが早いか美里君はスタスタと出ていってしまう。

「あ、あぁ……行ってらっしゃい……」

 僕は呆気にとられながら彼を見送る。だってさ、明らかに僕に対するのと、彼女に対する態度が違うんだよ。

「えへへ、みーちゃん怒らせちゃったね。でもね、あたしほんとに何も聞いてなかったのよ」

 美里君が居なくなるとほぼ同時に喋り始める彼女。この子もなかなか動じないなぁ。

「あ、あぁそうなんだ……。ところで君は美里君の仕事仲間なの?」

「そうよ、みーちゃんの方が先に入ったんだけど年はあたしの方が上。だからあたしはみーちゃんって呼んでるわ。皆は班長とか美里さんって言ってるけど、あたし的にはみーちゃんがいいと思うのよ。どう思う? あたし思うんだけど、あの子堅すぎるんだよね。ゆきちゃんのお気楽をさ、ちょっと分けてあげればちょうどいいのにね。そしたら絶対いいオトコになれるよ。みーちゃんってさ何て言うか他人に壁作ってるんだよね、人見知りが激しいって言うのかな。飲み会とかに誘っても絶対来ないんだよ。みーちゃん位のルックスがあってゆきちゃんみたいに愛想が良ければさ、絶対モテるんだよ。だからってゆきちゃん誘ってもノって来ないんだな、これが。こんなに可愛いあたし達の誘いをさ『兄ちゃん行かないならいいや』だって! 兄弟して付き合い悪いんだからさ、困っちゃうよね。……って静かだね、何か話してよ」

 散々喋っておいてそれかい……。僕は脱力してしまった。

「あのね、凄く失礼な事聞くかも知れないけど……」

「失礼な事はダメ、あたしは女の子なんだから」

 間髪入れずに質問を拒否する彼女。今時の女の子って皆こうなのかなぁ? それとも彼女が特別なんだろうか……。

「……じゃぁいいや」

 本当に体中の力が抜け切って何を聞く気も起きなくなった。その様子を見て彼女はキャハハと笑う。

「ウソウソ、冗談。年の事とスリーサイズと体重と成績の事以外ならいいよ」

 心底疲れた、これが素なら確かに美里君も怒ろうってもんだ。

「あのね……、僕と君は会った事あるの? ずいぶん親し気に話してくれたけど。もしあってたらごめんね、今記憶が無いらしくてさ、昔の事が全然判らないんだ」

 これだけ親しく話してくれるんだ、多分昔に会った事があるんだと思う。

「ううん、初めて会ったよ。で、あなた誰?」

 しらっと答える彼女。僕はこれ以上無いって位に脱力する。君は身も知らぬ初対面の人間にああいう話をするのかいっ! 

「僕は、日野明って言うらしいよ」

「あぁ! 知ってる! うちで知らない人いないよ」

「そうなの?」

「うんすっごい有名! 小学生の男の子に手をだしたとか、その子を家に囲ってるとか、それじゃ足りなくて色々手を出しまくってるとか、実はクマさんが欲しがってたんだけど本社に取られちゃってクマさん悔しがってたとか。まだまだ一杯あるよ? 聞きたい?」

 何か……今聞いていただけでも、僕がかなりとんでもない事していたっての判っちゃったんだけど……。でも、僕の事なんだし……聞いた方がいいのかなぁ……聞くのが恐いなぁ……。

「あ、ねぇねぇ今思ったんだ。みーちゃんとさ、ゆきちゃんがさ、くっついてたら面白くない? 『愛してるよ美幸……』『兄ちゃん……』なんちゃってさぁ! あの二人だったら許せるわ! あぁ……耽美だわ……背徳だわっ!」

 彼女は両の拳に力を込めながらうっとりしている。

 放っておこう……何を考えているんだか理解できん……。僕はもうつっこむ気力も無く、あさっての方向を見る。と、美里君の姿が視界の片隅に見えた。よく見ると美里君の肩が怒りに震えている。

「……お前は何をのんきに話しているんだぁっ! 早く本部に帰れぇっ!」

「あ、あれ? いつの間に戻って来たの? やだなぁ、戻って来るんなら五分位前に予告してくれなくちゃ」

 ……出来るかよ……そんな事。

 美里君はそんな彼女のボケを全く無視して僕の横に来た。

「明さん……外出許可を取ってきました。早く着替えて下さい。詳しい事は車で話します」

 ???何で? 

 僕には何が何だかわからない。

「ちょっとみーちゃん。あんた泣いた?」

 彼女は今までと違う、何て言うか家族を気遣うような、そんな表情をした。

「うるさい! 早く戻ってくれよ! 戻ってくれってば……」

 見る見るうちに美里君の目から涙が溢れ出てくる。

「ほら、やっぱり無理してる。あんたが無理してる時はバレバレなんだよ? 教えなさい、何があったの? それとも、あたしにも教えられない様な事なの?」

 彼女は取り出したハンカチでとめどなく流れる涙を拭ってあげている。もしかしてさっき震えていたのは泣きたいのを我慢していたのか? 

「ほら、泣いてばっかりじゃ訳判らないよ。いつもの冷静なみーちゃんはどこ行ったのよ」

 いまだ嗚咽をあげている美里君を宥めながら彼女は何とか事を聞き出そうとする。

「……ん……うよ……」

 ヒックヒックとしゃくり上げながらか細い声で話すので、はっきり言って聞き取れない。

「なぁに? 誰がどうしたの?」

 しかし、美里君はそれ以上話す事が出来なかった。ベッドに顔を伏せ、わんわんと泣き出してしまったからだ。彼女も肩を竦め降参の意を示す。

「駄目ね、あたしこんなみーちゃん初めて見るわ。ちょっとあたしクマさんに事情聞いて来る。でもってみーちゃんがあなたにも来て欲しいような事言ってたわよね。一人で着替え……られないか。いいわ、あたしが来る迄待ってて」

 そう言って彼女はパタパタと出ていった。

 一体何だってんだよ……。唯一事情が判っている美里君は全然泣き止まないし。自分が何をすればいいのか皆目見当がつかない。僕が途方に暮れているところに彼女が帰って来た。

「どうだったの?」

「駄目。教えてくれなかった。でもこれからクマさんが来るって言うから急いで準備しよう。ねえ、ズボンとかってどこにあるの?」

 僕達が苦労しながら着替えをした後すぐに清水さんがやって来た。

「明、準備はいいな」

 準備って言っても何が何だか解らない今僕がしたのは着替えだけ。でも、どうやらそれだけで充分らしい。

 清水さんは頷くと今度は美里君の所に行き、乱暴な事に長めの黒髪を掴んで引き起こすなり頬をひっぱたく。

 パシーンと乾いた大きい音が響く。

「ちょっとクマさん! なにすんのよ酷いじゃないのよ!」

 彼女がさすがに抗議した。

「やかましいっ! お前ぇは黙ってろ! 今こいつに腑抜けになられちゃ困るんだよ! コラ美里! 何ガキみてぇに泣いてんだ! 泣いて事態が変わるんだったら俺だって泣きてぇんだ! 気をしっかり持てぃ! シャキっとせんかい!」

 不思議な物で今のビンタと一喝で美里君はほぼ立ち直った。

「あ……すいませんでした。もう大丈夫です」

「ならばよし! 急げ! 車が下で待ってんだ。明も早くしろ」

 僕達は言われるままに車に乗り込んだ。

 最後に乗り込んだ清水さんがドアを閉めると同時に運転席から声がかかる。

「皆シートベルト締めておいた方がいいよ、じゃ出ますよ部長」

「急いでくれ、時間が惜しい」

「言われなくても急ぎますよ」

 運転席の人が言った途端に彼女がわたわたとベルトを締める。その理由はすぐに解った。

キュキキキキッ! と派手にタイヤを鳴らしながら凄い勢いで車が発進したのだ。右へ左へハンドルを切る度に体が横に振られる。

「あの……一体何があったんです?」

 街中を猛スピードで疾走する車内で僕は清水さんに質問する。横では美里君が真っ青になっている。よっぽどショックだったんだろうな……。

「坊がな……自殺を図った」

 え? 今なんて言った? 優君が自殺? え? え? 

「うっそ! マジ?」

 隣で右へ左へ揺さぶられる度にキャーキャーわめいていた彼女もびっくりしている。

「取り合えず一命は取り留めたが出血が多すぎた。昏睡状態に陥っていて、いつどうなってもおかしくねぇ。本当ならあの病院に輸送するのが一番なんだが、それじゃ間にあわなさそうだったんでな、一番近い救急病院に運ばれた」

「何でそんな事!」

 思わず叫びながらも気が付いてはいた。多分僕が原因だと言う事に……。

「何が原因なのかは知らんがな、坊にとって死んだ方がましに思える事があったんだろうよ。これは坊の部屋で見つけたお前ぇ宛ての手紙だ。後で目ぇ通しておけ」

 清水さんはスーツの内ポケットから一通の手紙を取り出し僕に放り投げた。

 僕はとてもじゃないがすぐに手紙を読む気にはなれなかった。自殺を図るほど追い詰めてしまったのは僕だろう。何か僕に対して恨み言が書いてありそうで怖かった。卑怯者と言われても仕方ない、でも今はどうしても読めなかった。そこにコトンと美里君が頭をあずけて来た。

「部長……。きぼぢわるい……」

 見ると血の気の全く無い美里君が口元に手をあてている。もしかしてさっきから真っ青な顔をして黙っていたのは優君の事が原因じゃ無くて車に酔っていたのかな? 

「我慢しろ! 後少しの辛抱だ、ここで吐くんじゃねぇ! 三分だけ気張れ!」

 さすがの清水さんも慌てたらしい。

 ぴったり三分後、車は優君のいる病院に着く。よっぽど我慢していたんだろう。美里君はドアを開けた瞬間に激しく嘔吐した。

「おケイ、お前ぇちょっと美里の事見てやれ。明はこっちだ急げ! 輸血パックだけじゃ血が足んねーんだ!」

 僕と清水さんは病院の中へ駆け込んでいく。

ただ、僕は両腕のギプスが邪魔をして余りスピードが出せない。

「遅せぇっ! 早く来い!」

 そんな無茶な……まぁ慌てる気持ちは充分すぎる程判っているので、僕はとにかく清水さんの後を必死についていく。

「先生! 新鮮な血ぃ持って来たぜ! 早く坊に輸血してやってくれ!」

 清水さんは集中治療室の前に行くなり僕を医者の前に押し出す。

「落ち着きなさい、そんなに慌ててどうするんだ。それに血を持って来たって、この方かい? 両腕にギプスしているじゃないか。それに血液検査もしないうちはこの方の血が使えるか判らないじゃないか」

 少し白髪の混じっている恰幅の良い、でも人の良さそうな先生が僕を見て困り顔をする。

「こいつに血液検査は要らねぇ! 前に逆の立場で坊がこいつに輸血してんだ! それで駄目なら泉寺総合にカルテ貰えっ!」

 清水さんは半ば喚いている。

「判った、判ったから少し落ち着きなさい。今、泉寺に問い合わせるから。君、少しこっちに来てくれるかな? それとあなた、あなたは少しここに座って落ち着きなさい。そんなに喚かれては他の方に迷惑になるから。もしそれが聞けないのならこの場所から出て行って貰うから、いいですね?」

 清水さんはむぅと呻いて手近にあった椅子にどっかりと腰掛ける。

「判ったよ先生。そのかわり坊の事頼むぞ」

「安心しなさい。きっと坊やは助かるから」

 にっこり笑って応える先生。この先生がこう言ったらきっと助かる。そんな気がする。

 結局僕は集中治療室につれて行かれ優君の隣に寝かされた。太めの注射針を刺され、ゆっくりと血が吸い取られて行く。

 優君からは何本ものコードが取り付けられ、様々な機械に繋がっている。鼻には酸素吸入の為のチューブが付けられている。その顔は血の気が全く無く、まるで死人の様だ。ただ弱々しいながらも胸の辺りが上下しているのと、心電図のピッピッと言う機械音が辛うじて優君が生きている事を伝えている。

「優君、死なないでくれよ……」

 取りあえず個人での限界量迄輸血させてもらい、僕は集中治療室を後にした。そこには僕が仕舞い損ねた手紙を持った美里君が待っていた。

「お疲れ様です、明さん。大丈夫ですか? フラフラしませんか?」

「僕は大丈夫。そっちこそ大丈夫かい? まだ顔が青いけど……」

「みーちゃんならもう大丈夫よ。さっき迄ずっと点滴打って貰ってたから……でもあんな乱暴な運転して良く事故起こさなかったわよねぇ、相模っち」

「えぇ、もう気持ち悪いのは治りました。でも相模さんがあんな凄い運転するとは思いませんでしたよ……。あ、それとこれ、さっき車の中に忘れて行ったやつ。もし読むんなら封を切ってあげますけど……どうします?」

 さっきの優君の姿を見て決心がついた。僕は逃げちゃいけないんだ、優君がどんな事を書いたのか知らなくちゃいけない。

 僕は美里君に頼み封を開けてもらう。屋根の上で寝そべっている犬のイラストが入った、結構可愛い絵の描いてある便箋にはこんな事が書かれてあった。

 お兄ちゃんへ

 お兄ちゃん、ごめんなさい。この間はすごくびっくりしたと思います。でも、あの時はすごく悲しくってお兄ちゃんと別れるのがいやでお兄ちゃんが他の人に取られるのが怖くって、ついあんな事をしてしまいました。ボクがあんな事しちゃったから、ボクの事嫌いになったんじゃないかなって思います。何かお兄ちゃんの事信じられなかったそんな自分がすごくいやになっちゃって。

 お兄ちゃんが選んだ人だったらみんないい人だよね、ボクはそう思うよ。ボクがいなくなってもその人と幸せになってくれるといいな。ボクはそれだけでいいんだ。それとね、ボクがいなくなったらボクのおこづかいはみんなお兄ちゃんにあげてってお祖父様に言ってあるから自由に使ってね。ボクはお兄ちゃんに会えてすごく幸せだったよ。だからお兄ちゃんはボクの事気にしないでね。さようならボクの大好きなお兄ちゃん。



 なんて子なんだ……。僕は自分が凄く情けなくなった。こんなにいい子をここ迄追い詰めてしまった自分が凄く嫌になった。

「畜生! 畜生……」

 僕は、拳を壁に叩き付ける。激しい痛みが走るがこんなのあの子が負った傷に較べれば全然痛くない。こんな自分が凄く憎い。

「ちょ! 明さんやめて下さい!」

「あんた何やってるのよ! やめなさいよ!」

 美里君と彼女は僕を取り押さえようとする。

「うるさいっ! 放っといてくれよっ!」

 打ち続けた拳の感覚が無くなってきてしまった。こんなんじゃとてもじゃないが気が済まない。僕は壁に額を打ち続けながら泣いた。

「もうえぇ、余り自分を責めるでない」

 僕の肩に手を置いたのは優君のお爺さんだった。

「スイマセン……僕のせいで……」

「お主のせいだけでもあるまいよ、あれは常にお主に負わせてしまった怪我の事を気にしておったよ。今迄にあれは何度もお主に助けられておる。それが無ければ今頃あれは生きてはおらなんだ。それにお主と出会った後のあれは本当に幸せそうじゃったよ。こう言う道を取ってしまったのは残念じゃがな……。だからと言ってお主が自分を責める事は無い。良いか? もっとシャキッとせいよ。あの大馬鹿者が目を覚ました時にゃ思い切り叱りつけてやってくれぃ」

 僕にそんな資格は無いよ……。

「あぁ、明さん額が切れているじゃないですか……。今看護婦さん呼んできますから……」

 美里君はパタパタと廊下を駆けて行った。

「もう……。あんまり自棄にならないでよね……」

 彼女は自分のハンカチが血で汚れるのも構わずに僕の頬をつたう血と涙を拭ってくれた。

「明君よ……くれぐれも言っておくが変な事考えるで無いぞ。お主の輸血のお陰であれはなんとか持ち直しそうじゃ。清水ももう良いぞ、社に戻って自分の仕事を全うせい。儂も仕事に戻る」

 そう言って翁は踵を返す。

「でもよ、親爺! 俺ぁこのまま帰ったって仕事なんか手につかねぇよ!」

 清水さん、よっぽど優君の事が心配なんだろうな……。

「それならば美里君に逐一報告させれば良かろうが。お主にはお主にしか出来ん仕事が山の様にあるじゃろうが。それともなんじゃ、おのれはあれが眼を覚ます迄ずっとここにいるのかよ」

 翁は突いていた杖をカツンと強く床に叩き付けた。

「いや……そう言う訳じゃねぇけどよ……。どうしても坊の事が心配でよ」

 あの清水さんが翁に対してしどろもどろになっている。凄い人なんだなぁ、優君のお爺さんは。僕は美里君が呼んできた看護婦さんが頭に包帯を巻いてくれるのをジッと待ちながら二人のやり取りを見ていた

「ならば後は彼に任せておけば良かろうが。ほれ! さっさと行った行った!」

「判ったよ……。行きゃぁいいんだろ? 行きゃぁ……。明、お前は少し休んだらあっちの病院へ戻れよ。今日取ったのは外出だけで転院じゃねぇんだ。後は美里に任せるからよ。ほれ、タクシー代だ。美里、お前はとにかく明を送った後にここに詰めていろ。もし坊に何かあったらすぐに報告する事、いいな?」

「判りました」

「よし……まぁなんだ……。何も無くても状態を報告してくれてもいいぞ」

 清水さんはポリポリと頬を掻きながら言葉を続けた。よっぽど優君の事が気になるらしい。

「了解しました。では一時間毎の経過を報告する事に致します」

「そうか! 悪いな、じゃ俺ぁこれで仕事に戻る。おケイ帰るぞ! とっとと来い! 美里、後を頼んだぞ」

「はい」

 美里君の返事を聞くとやっと安心したようで清水さんは病院を後にした。おケイと呼ばれていた彼女は凄く残念そうだったけど……。僕達も病院の一室を借りて少し休んだ後、タクシーを使い病院へ戻る。

「清水さんはとても優君の事が心配なんだね……」

 僕はベッドに腰をかけながら美里君に聞いた。

「そりゃそうでしょうね。何せ部長は優様が産まれた頃にはこの会社にいたそうですから。それに部長には子供がいませんからね、優様の事を実の子供以上に可愛がっていますよ」

「へぇそうなんだ」

「えぇ、そりゃもう。明さんは覚えていないかもしれないけど、優様が誘拐された後にね、あの人そんな下らねぇ事考えてやがる奴は俺がブッ殺すって。結局後ろで糸を引いていた犯罪組織壊滅させちゃったんですよ。まぁ、泉寺の資金力があったから出来た様なもんですけど……凄かったんですよ」

 ……。

「あのさ……、もしかして今回の事って清水さん凄く怒ってるんじゃ無いのかな……」

 殺されても文句は言えないよな……。こんな事になっちゃったら……。

「んー……。大丈夫だと思うんですけど…….もし本当に怒ってたら今頃明さんここに居ないだろうし……」

「ここに居ないって……」

「多分ですけどね。そんなに怖がる事無いですよ。私達はね、基本的には何があっても優様の意思を一番に考えますから。じゃ、私は優様の所に戻りますね」

「あ、うん。がんばってね」

「はい、明さんもあまり深く考え込まないで下さいね。暗い明さんなんて似合わないですよ」

「判ったよ」

「ならいいです」

 そう言って美里君は部屋を後にした。でもさ、深く考えるなって言われてもさ、人一人を自殺に追い込んだのはこの僕だ……。これでのほほんとしてられるなんて到底出来ない話だよ……。

 僕は結局一睡も出来ずに夜を明かす事になった。

「ちょっと明君何やったのよ? 頭に包帯なんかしちゃってさ。あ! 右のギプスヒビ入ってる! ちょっとあんたほんとに何やったのよ!」

 次の日の朝、福部さんが来ていきなり言われたのがそれだった。

 僕はすぐに処置室につれて行かれ両のギプスを外されレントゲンを撮る事になった。

「うーん……」

 担当医の先生が唸っている、何か考えているようだ。

「日野君」

「はい」

「左手のギプスだけど、そのまま外そうか」

「え、いいんですか?」

 ハッキリ言ってこの宣告は嬉しかった。

「うん、右手はちょっと駄目だけどね、折角くっつき始めていたのにまたヒビが入ってるからね。駄目だよ、壁なんか叩いちゃ」

 そう言ってアハハハと笑っている先生。だけど……、僕その事誰にも言って無いぞ。

「あの……。僕言って無いですけど……」

「あっちの病院で何があったか電話して聞いたんだよ。カルテを請求されたり、こっちで処置してない包帯をまいていたら誰だってあっちで何かあったと思うだろ?」

 ……確かに。

「とにかく、右手はまだ先。左手はリハビリしながらゆっくり元に戻そう。どれ、ゆっくりとでいいから手を握ったり開いたりしてごらん」

 何ヶ月かぶりに動かす左手。なんが油の切れた機械みたいに動きが悪いような気がする。自分の手なのに自分の思い通りに動かせない手。でも、自分の意思で動かせる手。

「あぁ、無理して動かさなくていいからね。相当筋肉が落ちてしまってる筈だから」

 確かに、腕が細いような気がする。しかも、臭い。僕は腕に顔を寄せてから後悔した。

「そりゃぁ臭うだろうね、長い期間垢を落として無いんだから。あぁ、福部君。清拭剤で日野君の腕拭ってあげて」

「わかりました」

「はい、じゃお大事に」

 先生は僕のカルテに何かを書きながら言った。

「明君、あっちに行こうか」

 誰も居ない病室で、綺麗になった腕を動かしながら僕は考えた。そして考えれば考える程時間が惜しい。

 僕の為だけじゃない……あの子の……優君の為にも早く記憶を取り戻さないと……。考える程に焦燥感がつのる。そして考えに考え抜いて……。

 決めた! ここを抜け出そう! 退院なんて待ってられない。僕が記憶を取り戻さない限り、あの子はまた同じ様な事を繰り返す可能性がある。

 僕のせいで人が死ぬなんて願い下げだ。そう決めたのはいいが、問題はいつ決行するかだ。余り早くに抜け出してもすぐに見つかってしまうだろう。この計画は一度しか通用しない。僕は更に考えた。

 そして決行日……。自分なりに考え抜いて最良の計画を練ったつもりだ。

 まずやったのは外出許可の申請、名目は優君のお見舞い。これはあっさり通った。これで少なくとも半日以上は時間を稼げる。優君には悪いがだしにさせて貰おう。その時間を使って家に戻り優君との手掛かりを捜す。最大の難関は資金の調達だ……、確かに多少のお金ならある。だけどこの計画の性格からして泊まる所が無いと言って家に戻る事等出来ない。だから現金が必要だった。

 でもここにあるのはカード類だけ、金をおろすには暗証番号が必要……、はっきり言って僕はそんな番号覚えてない。確か何回か入力を間違えるとカード自体が使えなくなる筈だ。これに関しては、前の僕が単純な思考で番号を決めている事を祈るしかない。

 僕は美里宛てに簡単な置き手紙をしておき、偶然居合わせたタクシーに乗り込んだ。免許証に記載してあった住所を教え、何とか自分が住んでいたと思しきアパートに辿り着く。

「えーと……」

 僕は部屋の中で何か記憶に繋がる手掛かりが無いか物色を始めた。どうやら優君と僕が、ここで暮らしていたのは間違い無いらしい。どう見ても僕のより小さいブリーフや靴下、色違いのカップ等があったから。それに棚には二人が寄り添っている写真が飾ってあった。

しかしそれ以上記憶に繋がるような物は見つける事が出来なかった。

 僕は何かのきっかけになるかもと思い、さっきの写真を持って家を出る。

 取り合えずお金をおろさなくちゃ……。僕は見憶えがある様な無い様な街並みを歩きながら銀行を探す。

「師匠?」

 僕はいきなり後ろから声をかけられた。ヤバイ! もうバレたか? ドキドキしながら後ろに振り向く。

「あぁ、やっぱり師匠だ! 何でここにいんの?」

「や、やぁ! 健太君。君こそどうしたんだい、こんな時間に」

 時刻は昼前、学生がいる時間じゃない筈だ。

「何言ってんのさ、今日は学校休みだよ! それより師匠、もう退院出来たんだ、おめでとう」

 良かった、僕が退院したと思ってくれているらしい。健太君には悪いが、暫くこのまま誤解していて貰おう。

「そうなんだ、それでさ健太君、ここら辺に銀行無いかな……? まだ完全に思い出せて無くてさ」

 我ながらチンケな嘘をつくと思った。だが、いきなりの事だったのでいい言い訳が浮かばなかった。

「そうなんだ、大変だね。いいよ、一緒に行こう」

「助かるよ。そうだなお礼にどっかで飯でも食おうか、おごるよ」

「マジ? やったー! 今日さ、家に母ちゃんも父ちゃんも居なくてさ。自分で作るの面倒だし、どうしようって思ってたんだ」

「いいよ、じゃぁ銀行に行ってお金をおろそう。その後何か食べに行こうか」

 僕は健太君の案内で近くにある銀行へ行く。窓口は終っていてキャッシュコーナーのみが開いていた。正確に言うと窓口自体は今日はやっていなかった。そこで今日は土曜日だと言う事にやっと気がつく。

 結果から言うと、なんとかお金は引き出せた。実に単純な暗証番号……自分の誕生日がそれだったのだ。落としたり盗まれたりしたら一発で全額引き出されてしまいそうだ。

 自分で言うのもなんだが、かなりの額が口座には入っていた。なんでこんなに入ってるんだ? かるく七桁あるんだよ……。取りあえずキャッシュコーナーで引き出せるだけの額をおろして、外で待つ健太君の所へ向かった。

「お待たせ、じゃぁお楽しみの御飯にしようか」

「ゴチです! 師匠!」

 健太君は心底嬉しそうな顔をしていた。

 僕達は駅近くにあった少し落ち着いた感じのレストランに入る。

「師匠……ここなんか高そうだけど……いいのか?」

「別に構わないよ、好きな物頼みな」

 精々ファーストフードかファミレスを考えていたのだろう健太君は恐縮しまくっている。

「俺こんな所入ったの初めてなんだけど……」

「そうなんだ、でも、ここの料理は美味しいんだよ」

「師匠は凄いな、こんな所で食事するんだ」

 あれ? そう言えば……この店は何回か入った記憶があるんだ……たまたま見つけたから入ったんだけど……。

 僕達は運ばれて来た料理を食べながら他愛も無い話をする。そう言えばこんな感じで食事をした様な気がしないでも無い。

「そう言えばさ、先輩がこの頃学校に来ていないんだよ。先生は風邪だって言ってるんだけど。先輩んちにお見舞いに言っても家に入れてくれないんだ。どうしたのかな? 兄貴とかに聞いても教えてくれないし、師匠は知らない?」

 僕は一瞬硬直してしまった。

「……いや、知らないんだ。僕も優君が暫く来ないから心配なんだけど……」

「そっか、師匠も知らないんだ……」

 良かった……健太君は気がついていないみたいだ。

 僕はさり気なく他の話題を切り出し、健太君から色々な話を聞く。その中で僕が記憶を無くす原因になった場所の話題が出た。僕は何とかその場所を聞き出した。詳しい場所は判らないが大体の位置を教えて貰う。

 その場所に行ってみよう……。

 僕は健太君と別れた後に本屋に入って周辺の地図を買い込む。喫茶店に入り、降りた駅と周辺の地形を検討する。それによって少し時間を喰ったが大体の場所はつかめた。

 早速ターミナル駅迄移動し、目的駅迄の切符を買い電車に乗り込んだ。

 失敗した……。

 僕がその事に気がついたのは、目的の駅に着いてからだった。そこに着いた時には既に日が暮れてしまっていた。

 宿……どうしよう。

 その駅の周辺には何も無くあるのは雑貨店兼駅舎と言う実に頼り無い物があるだけだったのだ。

「兄ちゃんどうしたね?」

 僕が途方に暮れていると雑貨屋の奥から腰の曲がった婆さんが出て来た。

「いえ、ちょっとぶらっとここに降りてみたんですが、宿が無いなぁって……」

「そんなもんこんな所にありゃせんわい、宿ならここから一時間もいかにゃならんよ」

「すいません、その場所教えて頂けませんか?」

「ちょっと待っといで……爺さん、この坊やを宿の辺り迄つれて行ってやってくれんかね?」

「あ、いや、そんな……場所さえ教えていただければ結構ですから」

 店の奥に引っ込みかけた老婆は笑いながら言った。

「電車なんぞ今日はもう来ないよ。タクシーを呼ぶ位なら爺さんにつれて行って貰った方が早いよ。若いもんが遠慮なんぞするない」

 結局僕は老人の運転する三輪トラックに乗せられて近くの宿場に連れて行かれた。

「有難うございました。あの……これガソリン代の足しにして下さい」

 僕は財布から一万円札を取り出し、老人に渡した。

「そんなん要らんわい。久し振りに若いのと話が出来た、それだけで充分だよ」

 そう言って親切な老人は戻って行ってしまった。飛び込みなのにも関わらず、快く部屋を提供してくれた宿屋の女将に礼をいい、僕は部屋で寝転ぶ。久し振りに自分の足で遠出をして疲れたのか、僕はそのまま寝てしまった。

 翌朝、僕は宿からタクシーを手配して貰い、目星の付いている山へ向かうべく宿を出た。途中、僕は何日分かの食料を確保するべく昨日の雑貨屋に寄ろうと運転手さんに進路を変更して貰う。

 殆ど車の通らない道を前の方から猛スピードで走って来た車とすれ違う。

「こんな田舎道をあんなスピード出しちゃって、危ないねぇ」

 年を喰った運転手さんが呑気な声で話し始める。だが僕は呑気になんか出来なかった。その車には鮮やかにISSのロゴがあったのだから……。

 もうバレたのか……しかし、凄い情報集収納力だ。今走り去って行ったのは僕が泊まっていた宿があった方向。既に山の方にもなんらかの手が打ってあると思っていいだろう。でもこのまま大人しく帰るのも何か癪だ。取りあえず食料だけ確保した後に何としてでもここで手がかりを探したかった。

「運転手さんここ迄でいいや」

 このまま乗っていてもし気付かれたら逃げ様が無い。すぐに身を隠せる様に車を降りておきたかった。

「いいのかい?」

「うん、ありがとう。お釣はいいや」

「こんなにいいのかい?」

「うん、取っといて」

 僕は逃げるように車を降り、細心の注意を払いながら昨日の雑貨屋迄辿り着く。

「あれ、いらっしゃい」

「昨日はありがとうございました」

 僕は店番をしていた老人に頭を下げる。

「兄ちゃん、あんた何かしたのかい? 今朝、熊みたいにでっかいヤクザがあんたの写真持って訪ねて来たよ。兄ちゃんみたいな人が悪い事したと思えないからさ、警察に行った方がいいんじゃないのかい?」

 やっぱりもう清水さんがここにも来たんだ……。

「いえ……大丈夫です」

 僕は保存のききそうな食料を重点におき、買い物を済ませる。心配そうにしている老人に再び挨拶をして店を出る。

 ……! 

 そこには、美里君が立っていた。僕の顔を見ながらつかつかと寄ってくる。僕はハッキリ言って逃げる事が出来なかった。何故なら美里君は涙を流していたから……。

 パンッ! 

 美里君の平手打ちが僕の頬を打った。ジンジンと鈍い痛みを感じる。

「何をしていたんです! あなたは! 私達がどれだけ心配……した……」

 最後の方は言葉になっていなかった。僕の服を掴み身体をあずけながら泣いたから……。美里君から溢れる涙が僕の服を濡らす。

「……ごめん……」

 僕は美里君の身体を優しく抱いてやりながら謝った。

 美里君が落ち着いた後、携帯では連絡が付かない清水さんの戻りを待つ事となった。結局この話がバレたのは、健太君が美幸君に僕の退院祝いをしようと持ちかけた事が発端らしい。そこで、僕が執拗に聞いていたこの辺りが第一候補として捜索範囲になったそうだ。

 そして美里君一人がなぜここに残っていたのかも判った。やはり、さっきすれ違った時にバレていたらしく美里君が僕に似た人影を確認したので途中で車を降りて戻ったと言う事だった。

 そろそろ陽も暮れようとした頃、清水さん率いる何台かの車が駅前の道路に停まった。

 バタンッ! 

 乱暴にドアを閉めた清水さんが憤怒の表情で僕に近寄り……。

「この大馬鹿野郎っ!」

 僕は何メートルか宙を舞い、草原の中に墜落する。美里君が引っ叩いたのなんか比べ物にならない痛みがあった。鼻からは生暖かい物がつたい落ちる。

 でも僕は文句を言えない。この人たちが本当に僕の事を心配していたのが判ったから……。

 更に何発かを貰い、僕は車に乗せられた。

「大丈夫ですか? 痛かったでしょう?」

 僕はなかなか止まらない鼻血と腫れ始めた顔を冷やす為に美里君の膝枕で横になっていた。



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